東北へ
2012.4.16.
早朝、車に二泊分の荷物を積み込み、男三人東北へ向かった。東日本大震災から1年が経っていた。
東北道をひたすら北上、目指すは650km先にある岩手県の宮古。4月なのに途中吹雪く区間もあり、東北の冬の厳しさを思い知る。
岩手の北上江釣子インターチェンジを降りて、しばらくは北上山地の山々を眺めながら走る。「民話のふるさと」遠野郷の美しい田園風景をしっかりと目に焼き付け、海岸の被災地方面へ。宮古へ行くには山を越えなければならない。峠の上りに差し掛かると予想外に雪深くなってくる。日の当たらない薄暗い雪道の峠越えは緊張の連続だったが、どうにか越える事ができた。
夕方になり海が近づくにつれ、映像で見たあの被災地の惨状が脳裏に浮かんでくる。しかしもう既に1年が経っているのだから、復興の兆しも少しは見えるだろうと正直思っていたが、仮設住宅が見えてくる辺りから状況が激変した。海岸沿いの町に家が、、、無い。あるのは二階部分までボロボロになった建物の残骸と住宅の基礎部分のみ。自分の予想を遥かに超えた津波の力に、ただただ立ち尽くすしか無かった。
日も落ちる頃、初日の長旅を癒すため早々にホテルへ。翌日へ向けて早めに休む。
晴天の二日目の朝、海岸へ降りる。浄土ヶ浜の静かで美しい景色からは大津波があったことなど想像もつかないが、ボート乗り場の建物の壁にはベニヤ板が貼られており、ガラス窓が津波でやられているのが分かる。そのベニヤ板は被災後訪れた方々の応援の言葉で埋め尽くされていた。それを見ていた我々にボート乗り場の係の方が話しかけて下さり、今もボランティアのダイバーが海の中の瓦礫を撤去しているとのこと。その後ボートに乗りながら海の上でいろいろな話を聞く。奥様を津波で亡くされているとのことで、一瞬言葉に詰まるが、あの日の出来事をたくさん話して下さった。
「自然は昔と何ら変わらないように見えるけれど、一瞬にして津波は人が作ったものだけを全て奪って行った。夏の海水浴に向けて元のきれいな海に戻すために頑張るから、とにかく多くの方々に来て欲しい。今日の話を皆さんにお伝え下さい」という言葉を胸に刻み、次の町へ向かった。
この日は海岸線沿いの国道を南下。宮古を出て陸中山田に着く。またしてもショック。陸中山田駅は完全に破壊されており、報道ではあまり聞かなかった小さな港町の被害の大きさに、今日これから続くであろう被災地の状況を感覚的に察知した。続いて大槌町に着くと、辺り一面の更地が現れた。大津波の後の火災により、町が燃え尽きてしまったとのことで、以前ここに町があったことすら分からない状況だった。大型プレス機で潰されたような車の残骸の数々にただただ言葉を失う。そしてあの釜石の町も壊滅的な被害を受けていた。もう1年も経っている、、、という認識の甘さを痛感した。
東北の太平洋側の海岸線は、入り組んだ狭い湾が連続して続くリアス式であり、曲がりくねった道を抜け、視界が開けると同時に海岸線と町並みが現れる日本屈指の美しい景観があった。それがいま、広範囲にわたって瓦礫の山と化していることに呆然とし、移動中の車の中は皆無言で静まり返った状態が続いた。
続いて大船渡の各地区を回る。入り組んだ内湾の区々の全てが壊滅的な被害であった。そして先へ進むと崩れ落ちた橋脚、異常なほど曲がりくねったガードレール、破壊された大きな建物を残すのみで、辺り一面更地となった町、陸前高田市に入る。ここは知人の生まれ故郷であり、直接聞いてはいたが想像を遥かに越える被害が目の前に現れた。海近くの集合住宅は4階部分まで破壊され、後方にある学校の建物も3階まで津波が襲っており、瓦礫の山が築かれていた。人影のない更地の中で、無言のまましばらく立ち尽くす自分。そこには風の音と復旧作業にあたる建設機械の音だけが鳴り響いていた。
日も落ちる頃に突然の吹雪の中、二日目の宿泊地、宮城県の気仙沼に着いた。薄暗い中で廃墟と化した建物が見えた。
夜は気仙沼の屋台村へ行き、店の方や他のお客さん達からまた多くの話を聞くことができた。家も仕事場も流され、被災直後は瓦礫の撤去作業に従事し、仮設住宅に住みながら、仙台まで出稼ぎに行ったという店主、数年前に東京から気仙沼に帰郷し、お店を開いていたが全てが流されたというバーの店主の話など、生の声を聞く事ができた。全ての屋台を回るつもりだったが、4軒目で閉店時間となっていた。ホテルへ戻り、ゆっくりと温泉へ浸かる。寝付きが悪いが明日も早起きだ。
朝、高台にあるホテルの部屋から気仙沼全体の被害が目に飛び込んで来た。街灯もまだ少ない夜では分からなかった町の状況が一気に目の前に現れた。海から遠く離れた場所まで巨大な船が流されており、昨日の店主達が言っていた「屋台村の期限は2年。町が以前のように戻るには、最低10年はかかるだろう」という言葉の意味を理解し、近いうちに再び訪れることを約束して町を出た。
東北の海岸線には小さな港町がたくさんあり、報道も少ない町もそのほとんどが被災していた。海岸線を走っていると更地と瓦礫の山が現れ、以前この場所に町があったことが分かる。瓦礫の山の大きさがそのまま町の被害の大きさを物語っているようで、このような更地と瓦礫の風景が一体どこまで続くのか不安になっていた。続いて訪れた南三陸町、そして女川町の被害の大きさは想像を絶し、高台にある建物でさえ津波が襲い、町が壊滅した状況が目に飛び込んでくる。石巻市は工場一帯を飲み込み、非常に広い範囲が壊滅。津波は何もかも、、、全てを一瞬にして奪い去ってしまった。
東松島、塩竈を抜け、夕方仙台で遅い昼食を取り、そのまま海岸線沿いをさらに南下、大きな被害があった山元町を過ぎ、福島県相馬市へ入る。国道は一時的に海岸から離れるが、遠くからでも津波の被害の様子が分かる。ここまで通った全ての町が被災地であるが、この広範囲の被害の全貌を到底見ることなどできない。
そして南相馬市を南下途中に原発20km圏内通行止めにぶつかり、海岸線の南下は終了。と同時に日が沈む。本当はそのまま南下を続け、茨城、千葉へと向かいたかったが、迂回道も通行止めで、結局再北上、福島県を横断し、東北道経由で東京へ戻ったのは深夜。全行程1500kmの旅であった。
今回自分は何をしに東北へ行ったのか。何かの役に立つ訳でも無く、ボランティアでも無いただの観光だと言えばそうかもしれない。だが行かずにはいられなかったのだ。いまこの目には1年前の壊滅的な状況から立ち上がろうとしている人々の姿が焼き付いている。
「夏の海水浴に向けて元のきれいな海に戻すために頑張るから、とにかく多くの方々に来て欲しい。」
夏も東北へ向かう。そしていつの日かまた海岸線に人が戻り、元の美しいリアスの港町が再生することを願い、これからも通い続けようと思う。